『普勧坐相みほとけ』(ふかんざそうみほとけ)
 ●横山祖道著 柴田誠光編



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目次

46判上製 152頁 CD付 平成20年4月 大法輪閣刊


横山祖道老師語録(一部)
 
 「仏道」
〇仏道はものに成り切る法である。自然はみなそのものに成り切っている。その自然をお手本として自分も自分に成り切れさえすればよいのである。悟りとはものそのものに成り切ることであるから、「俺は悟った」といえないのである。
〇お釈迦さまの教えは煩悩を取るというより、煩悩をつかわない教えである。「煩悩を実行すればそこに苦悩が生ずるものである」とお釈迦さまは説かれた。
〇欲法では決して満足することはない。無欲(少欲知足)の一手しかない。

 「坐禅(只管打坐)」
〇坐禅は宇宙(永遠の生命・非思量・大慈大悲・仏戒)と一体となる法である。
〇坐禅(坐相)は宇宙そのものが、我は斯くの如きものであるとかいって、人の坐相となって雪山のほとりに降臨したものである――坐相降臨
〇知らないふりが出来た時、坐禅が身に付いたということが出来る。自然には認識がない。この認識のないものが坐禅なのだから、人間としては知らないふりをすることである。これは言葉を換えていえば忍耐強いということであり、愛情深いということである。

 「宇宙」
〇宇宙といえば広い空間を考えるのが一般であるが、仏教でいう宇宙とは、時計は時計で宇宙、本は本で宇宙、「なんでもそのものがそのものであること」、これを宇宙という。それ故、日本人は日本人にならなければ宇宙にならない。出家は正確に出家しなければ宇宙にならない。
〇自然界の「不可抗力」、これを思うと根性よしに思えないけど、宇宙は何らも理性がない点に於いて、宇宙は根性よしなのである。

 「人間・人生・生活」
〇自分が凡夫であることを自覚しないのも宗教的には「バカ」であり、自分が仏であることがわからないのも宗教的には「バカ」なのである。仏教では凡夫と仏を切り離すことはできない。凡夫ぎりの凡夫もなければ仏ぎりの仏もない。しかし凡夫は凡夫であり仏ではない。
〇自分はどんなに妄想妄念で凡夫であっても、本来は仏なのであると信じて仏行をするのである。
〇私はこのような個性を持った自然なのであると見ることが、仏教の見方である。私が死ぬのも木の葉が散るのも同じことなのである。人間尊重は仏教の見方と異なる。

 「菩提心」
〇自未得度先度他は自分のことを考えず他を先に考えることで、これは常に実践であり、思想ではない。
〇さまざまな人達が来て自分を修業させてくれるのである。今日二人の女性が「この前もここに来て草笛を聴いたので、また聴かせてください」と言って来たので一生懸命吹いてあげたが、草笛が終わるか終らない内に二人は立って行ってしまった。そうすると何か心にいやな気持が残る。その悪感情をいかに良い感情にかえるか、そこに修行があるのである。
〇誰をも仏として拝まなければならない。誰をも仏にした時、自分も仏となっているのである。

 「信仰」
〇人は誰でも自己の本心は自性清浄の情(宇宙母の情)であることを知って、これに生きることが信仰なのである。
〇思量分別のあるまま思量分別のない宇宙を信ずるのである。
〇どんなこと、どんな災難も幸せに変える力がなければならない。それには自分という限定した力ではなく、無限の力(宇宙の力)が自分の力であると信じていかなければならない。

 「出家」
〇出家者は家を捨て、世を捨て、身を捨て、心を捨てるのである。そして大自然そのものになるのである。
〇坐禅を信じて坐禅にこの身を供養して、あとは野となれ山となれという態度が出来たとき、その態度が大悟徹底したというのである。
〇出家の自覚がありさえすれば、それでよい。出家の自覚とはこの人生を捨てた者、欲のない者ということである。
     本書編者 柴田誠光【横山祖道老師追憶】(覚え書き)から


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