『我立つ杣』(わがたつそま)
 ●横山祖道著 禅師 横山祖道遺稿刊行会編




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目次

46判上製 304頁 昭和57年6月 紀尾井書房刊


『我立つ杣』の内容

   「我が立つ杣」の成立について
 昭和二十八年の夏、渋谷光明先生(*こちら)が、それまで校正した横山祖道師の作曲歌を「安泰寺歌曲集」として整理を始めた。一方、その歌詞(おもに和歌)を斎藤宗績医伯(*こちら)が毛筆で浄書することになり、翌二十九年の秋に一段落となった。この過程で祖道師は歌の心に禅の立場からの注釈を試みた。これが契機となって、沢木興道老師の「禅語録」から後世に残すべき「ことば」を整理し、医伯が毛筆で浄書することになった。
 そこで、約二十年にわたる老師の提唱を誌したノートを祖道師が整理しながら稿を起こしてまとめたものが、この「我立つ杣」となった。それは昭和二十九年十月から三十一年七月まで約二年がかりで書きつがれた。初めは「興道禅の語録」に若干の注解をしたものだった。だが途中でこの注づくりが広がって行った。そして、この注を中心に二十年にわたる仏道修行で体得した自分の境界を展開したものに変わっていった。
 一段落のあと数か月、安泰寺で修行していた祖道師は期するところがあってか、翌三十二年三月末に安泰寺をあとにし仙台に赴いた。仙台には一年間滞在し不調になった身体の静養をした。そして翌三十三年四月小諸市へ旅立った。仙台滞在中に一度はこの「我立つ杣」を世に出すことを考えたようであったが、それは、これからの行持(生活)そのものをもって示すべきものとの決意からか断念したようである。
 かような経過があって、小諸懐古園の二十二年間の生活が展開され、「我立つ杣」は二十数年を経て今度初めて遺稿となって世に出ることになった。二十二年間におよぶ小諸の生活は祖道師にとって、この遺稿にみられる信仰の漂白をさらに深めていく生活であった。その晩年八年間にわたり、祖道師のもとに随身されたのが柴田誠光上座であった。祖道師の信仰生活の深まりとともに、この二十数年前の原稿にも注解が加わった。その注解部分を誠光上座につけ加えてもらい出来上がったのがこの「我立つ杣」である。

  我立つ杣(一) 発願利生(一所不住以後)
 昭和十二年、本山総持寺参禅会に出かけた前後のノートを整理したもの。この参禅会が機縁となり沢木老師のもとに出家することになった。「一所不住」はこれ以前の在家青年時代の日記ノートであるが、出家するとき全部焼いてしまい現存しない。
 この「発願利生」は沢木老師の坐禅用心記の提唱録が中心であるが、在家時代すでに"夕焼体験"と"雉子体験"をもとに只管打坐法を直感し、また老師のもとに出家するについて、完全なる宇宙を作ってからと十劫思惟した北上三郎の片鱗をうかがわせるものがある。

  我立つ杣(二) 成切ったら成仏
 「成切ったら成仏」の根拠である只管打坐法としての坐禅、とくに沢木老師の坐禅に対する語録を、在家時代の"雉子体験"を土台として注解したもの。

  我立つ杣(三) 夢の木 序
 初め「夢の木」と題し、出家して直ちに津島市(愛知県)の雲居寺(橋本恵光老師)に預けられた時代(昭和十二年十月〜十三年三月までの五ヵ月間)のノートを整理し「雲居老師語録」の注解をまとめる予定であった。そしてその「序」として在家時代の"夕焼体験"を土台に「万象離念」「宇宙唯色」の見解を医伯あて書簡(昭和三十年正月七日)で表明して「序文」にかえ「本文」の方は削除されて残っていない。

  我立つ杣(四) 情の坐禅
 「夢の木」の注作りの過程に「宇宙唯色」に到達、そしてそこに宇宙母の情をみた。これを土台に「老師の坐禅は信仰の坐禅であり、必ず情(ミヤビ)の坐禅である」との確信となり、この「情の坐禅」が執筆されたと思われる。「情の坐禅」は生前に前の方一部を残して、あとは削除してしまい残っていない。

  奥の旅つと
 「情の坐禅」をまとめた昭和三十年の夏、老師のともをしての東北巡錫の旅がやってきた。七月から八月にかけての一ヶ月、この東北の旅の消息を医伯あてに通信した。それは十七信に及び、医伯が「奥の旅つと」と題して編集浄書した。
 この東北巡錫の旅は昭和二十六年から始まり、老師を古里に迎え祖道師にとっては思い出多い一年に一度の旅であった。

  いろいろ青い草
 これは初め「我立つ杣」(五)として「情の坐禅付録」の予定であった。「夢の木」の注作りのため、いろいろ書いた原稿を整理して「情の坐禅」の背景を明らかにしようとしたものと思われる。それが幼少年時代からの回想を織りまぜて、独語(ひとりごと)をして「情の坐禅」との関連を明らかにしたものになり、独立した扱いとなった。

  空のもと
 「いろいろ青い草」のあと、約二十年にわたって老師の提唱を記したノートを整理し「只管起信論」と題し稿をまとめる予定が、「修証一如」に変わり、さらに「空のもと」となった。
 これは創作めいたものをと考えて書き始めたようだが、肥後の野(熊本時代)のノートに目を通し、「続いろいろ青い草」断片というものになったようである。

  我立つ杣(五) 輝いている雲切 めぐみのもと家庭神聖
 出家して二十年、老師の提唱ノートを整理し、その注解を書きついで一段落。昭和三十一年正月をむかえて新たな展開を試みたのが、この我立つ杣(五)「輝いてる雲切」である。
 正月五日から医伯あて書簡が立て続けに六通も発せられ、三月末まで書きつがれた。それは、その間の祖道師の生命の記録となり、真説となった。
 宇宙母の情の形が坐相みほとけであり、それは家庭の神聖を表現するもの。宇宙人生(家庭)の和合の相である。そうでなければ宗教にならない。そのような立場から坐禅は信仰の坐禅であることの表明となった。

  鉢の子
 祖道師は昭和十七年、肥後の野に赴いた直後に佐賀の竜泰寺で開かれた老師の参禅会で侍者を勤めた。このときの老師の提唱は観音経であった。その提唱ノートを整理しながら改めて観音経に参じ南無観世音信仰を表明したものである。これは出家して二十年の仏道修行の総決算の観がある。
 観音信仰の起源は坐相降臨にあり、この坐相が慈眼視衆生で、宇宙観世音――宇宙母の情、万象無敵がその源であるとし、常念称名ただ一事、それが宇宙人生の本来相であり、坐禅がそもそも之である、と。そして「坐相聖念南無観世音」と結んでいる。
 小諸懐古園の生活がこの結論を一身にまとってのものであったことをうかがわせる。
            (本書巻末の畠山文雄氏の「解題」から抜粋引用) 


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